大化の改新 (西暦645年) |
奈良国立博物館所蔵 |
奈良時代末期、力を持ちすぎた豪族・蘇我氏の支配を排斥し、天皇を中心とする律令制を作り直す為に行われた国政改革の事を言う。年には高句麗で泉蓋蘇文がクーデタで権力をうばい、百済・新羅でも政変がおこり、いずれも専制権力が生まれた。 | |
中臣鎌足と中大兄皇子は、645(皇極天皇4)年6月、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を謀殺した。 翌日、その父・蘇我蝦夷も自殺し蘇我氏の本宗家は滅びた(乙巳の変)。 中大兄皇子は皇太子にとどまり、皇極天皇が退位した為 (当時退位は珍しく、天皇は一度その位につくと死ぬまで退位しないのが先代までの習わしだった。前代未聞の事件であるが、理由は謎である孝徳天皇をたて、左大臣には保守派の阿倍倉梯内麻呂(クラハシノウチノマロ)・右大臣は蘇我倉山田石川麻呂(クラノヤマダノイシカワノマロ)にし、中臣鎌子を内臣とする改新政府をたてた。 元号を大化とし、唐に対抗して高句麗・百済とむすぶ外交姿勢をしめした。 |
飛鳥・蘇我入鹿の首塚 |
646年1月には大化の改新の詔を発布した(「日本書紀」によると)。
などを宣言した。649年にはに冠位制度は13階から19階に なる。中大兄皇子は率先して私有していた入部(いりべ)をかえし、豪族の下の部民は国家の公民となった。また、阿倍比羅夫のひきいる水軍が東北地方に派遣され、蝦夷の支配強化にあたった。 650年には都を難波長柄豊碕宮(難波宮)にうつした。
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★中臣鎌足と中大兄皇子の出会い 密かに蘇我氏の謀殺をたくらんでいた鎌足は、あるとき中大兄皇子も蘇我氏の謀殺をたくらんでいるという噂聞き、チャンスをねらっていた。 蹴鞠の御遊会があって、中大兄皇子が蹴鞠をしていた。鎌足は見物人としてみていたわけだが、皇子がけったまりがたまたま鎌足のほうへ飛んできた。鎌足はそのまりを拾い上げて皇子に渡し、皇子に、実は自分も蘇我氏を憎んでいるとささやいた。それがきっかけで、二人はたびたび密かに会い作戦を立てた。 |
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