薬子の変

(西暦810年)

平城太上天皇の変とも呼ばれる。

平城上皇が810年(弘化1)に後宮の寵妃藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄、仲成にそそのかされ復位をねらいおこした政変事件
 嵯峨天皇は藤原薬子を宮中から追放し、仲成の身を捕えた。この前後の一連の動きを一般に薬子の変と呼ぶ。平城天皇(第51代。桓武天皇の息子。のち上皇)とその弟の嵯峨天皇(第52代)が対立した。

平城天皇は、809年(大同4)位を弟の嵯峨天皇にゆずったが、太上天皇としての権力は保持しており、嵯峨天皇が病気になると薬子や一部の公卿とともに旧都平城京に移り、もとの平城京への遷都を考え平城宮造営を命じてそこへ移り、嵯峨天皇のいる平安京とのあいだに、 二所朝廷と呼ばれる政治的混乱になった。
嵯峨天皇の迅速な対応が勝利につながった。坂上田村麻呂が派遣され810年(弘仁l)9月ついに天皇側は仲成を捕え薬子を追放し た。
上皇は平城京を脱出し東国へむかおうとし たが天皇側のすばやい迎撃により平城宮に帰還し上皇は出家、仲成は射殺され、薬子は12日服毒自殺をした。

この変の結果、
  • 高岳親王(平城上皇の皇子。この時皇太子)は皇太子の地位を失う。彼はやがてこのころから急速に注目されるようになっていた空海のもとで修 行をして真如と呼ばれ、空海の高弟となる。
     
  • 藤原式家(薬子がでた)は衰え、藤原冬嗣の藤原北家が以後隆盛するきっかけとなった。
       

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制作日:2005年1月11日 製作者:朝明
更新日:2005年1月12日
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