平将門
(たいらのまさかど)







916〜940(38才)

平安中期の武将。

桓武平氏の高望王(たかもちおう)の孫。
若い時上京して藤原忠平に仕えたが、帰郷する。その後、父の遺領や女性をめぐる問題から一族内で紛争がおこり、この紛争が朝廷への反乱に発展した(=将門の乱承平の乱))。将門は関東の 中央からの独立をめざして自らを新皇と称したが、数ヶ月で鎮圧された。




下総国で兵を挙げ坂東八ヶ国 (上総・下総・安房・常陸・武蔵・上野・下野・相模)を平定した。が、数カ月で藤原秀郷と平貞盛らに奇襲され、茨城県岩井市の神田山で敗死した。
この乱は、続いて起きた藤原純友の乱とともに朝廷の人々に大きな衝撃を与えた。
一方、東国では将門は国家の支配に抵抗した英雄として人気になった。そのため、後に様々な伝説が生まれた。
  • 将門自身は鋼鉄の不死身の身体をもっていた。
  • 将門には7人の影武者がいた。
  • 都の東市で晒された将門の首は、首だけ生きていてするどい眼光で人々を睨み恐れさせた。その首はのちに空をとんで関東へもどっていった。
  • 比叡山で将門調伏の祈祷をしていたところ、武装した将門の姿が現れた。






将門の首は京都に送られ獄門にかけられたが三日後、関東に別れを惜しみ白い光を放ちながら東に飛んでいったという。首は武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。大地は鳴りひびき、太陽も光を失って夜のように暗くなったと。村人は恐れて塚を築いて手厚く埋葬した。これが東京都千代田区大手町1ー1ー1にある首塚であり、将門の首塚と語り継がれている。

その後もたびたび将門の怨霊が災いをなし、1307年、真教上人は将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚の前に塔婆を建てて日輪寺で供養し、傍らの神社にも合わせ祀った。そしてその神社が神田明神と呼ばれるようになった。ようやく将門の霊魂も鎮まり、東京守護神になった。

神田明神と日輪寺は現在の地に移っているが、首塚は古墳であるため移転は遠慮され昔の地にそのまま残ってビルの狭間に残されている。

首塚は毎日掃除されているらしく、いつもきれいだ。休日にはお参り しに来る人も多い。


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制作日:2005年3月5日 製作者:朝明
更新日:2005年3月7日

 

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