| 年表 其の弐 |
陰陽道に関係する平安時代〜安倍晴明没までの日本史の年表。
| 西暦 | 和暦 | 陰陽道史関連 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 794 | 延暦13 | 平安京遷都 | === |
| 797 | 延暦16 | 『続日本紀』成立。 | === |
| 800 | 延暦19 | 崇道天皇(早良親王)の山稜に陰陽師・衆僧を派遣する。 | 類聚国史 |
| 804 | 延暦23 | 最澄・空海、渡唐。 空海は恵果(長安の都で『宿曜経』を翻訳した不空の高弟であった)から密教の奥義を伝授される。 | === |
| 806 | 大同1 | 空海、帰国。『宿曜経』を、多くの密教経典と共に日本に持ち帰る。 ⇒宿曜道の研究が本格的に始まる。 |
日本書紀 |
| 807 | 大同2 | 平城天皇、暦注の禁止令を出す。⇒3年後には復活する。 | === |
| 810 | 弘仁1 | 薬子の変 | === |
| 848 | 嘉祥1 | 円仁(天台宗の高僧)が渡唐。『宿曜経』を空海に続き再び請来する。 | 日本書紀 |
| 850頃 | === | 『都利いっし経』(トレミーの占星術書の中国訳で、宿曜道の重要文献)が伝来する。 | === |
| 851 | 斉衡1 | 滋岳川人が滋岳朝臣姓を賜る。正六位上陰陽権允 兼陰陽博士。 | === |
| 858 | 天安2 | ●「五紀暦」が採用され、「大衍暦」と併用して用いられる。 ⇒4年間 |
=== |
| ●9月2日、滋岳川人が文徳天皇の陵墓を占定したその帰りに、地神の怒りに触れるが、遁甲の術で逃れる。 | |||
| ●円珍(空海の甥)が渡唐。再度『宿曜経』を請来する。 | |||
| 859 | 貞観1 | ●滋岳川人が大和国で虫害防止の祭祀を行う。 | 日本三代実録 |
| ●渤海国使・烏孝慎、「宣明暦」を献上。 | 日本三代実録 | ||
| 862 | 貞観4 | ●「大衍暦」を廃し、「宣明暦」を採用。 ⇒ほぼ800年間、江戸幕府天文方・渋川春海の貞享暦(1684年)まで施行される。 |
日本書紀 |
| 864 | 貞観6 | ●陰陽師・弓削是雄が伴宿禰世継の夢を占い、命を救う。 | 今昔物語集 |
| ●弓削是雄、藤原有蔭に招かれて、属星祭を行う。 | 政事要略 巻95 |
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| 865 | 貞観7 | 従五位下陰陽権助陰陽博士滋岳川人、権介になる。 | === |
| 871 | 貞観13 | 滋岳川人、『六甲六帖』を撰進。 | === |
| 872 | 貞観14 | 5月2日条文(太政官符)において、武蔵の国で「権史生」と称していた陰陽師を正式に「陰陽師」と改称する。 | === |
| 874 | 貞観16 | 5月27日、陰陽師・滋岳川人 没。(従五位上) | === |
| 882 | 貞観18 | 9月29日条文(太政官符)において陸奥国鎮守府に陰陽師を置く。 | === |
| 883 | 元慶7 | 正月一日に、七曜暦が献上される。 | === |
| 891 | 寛平3 | 7月20日条文(太政官符)において、下総・常陸国の史生を一人減らし、陰陽師を置く。 | === |
| 894 | 寛平6 | 菅原道真が遣唐使を廃止。 | 菅家文草 |
| 897より前 | 寛平9 |
日本に現存する最古の漢籍目録・『日本国見在書目録』(藤原佐世撰)、この年以前には成立。 (40部門・1579部・16790巻を収録、各書籍を解説。目録の中には日本や中国でも既に失われている書籍も多く掲載してあり、貴重な史料。中には多くの五行書、そして『五行大義』(隋・蕭吉撰)もある。) |
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| 899 | 昌泰2 | 菅原道真、右大臣となる。藤原時平が左大臣となる。 | 日本書紀 |
| 900 | 昌泰3 | ●『符天暦』(『七曜符天暦』)伝来。 宿曜道の暦計算の重要文献。インドの暦法に従った暦。これを用いることによって宿曜道のホロスコープが描けるようになり、密教の星曼陀羅(北斗曼陀羅、尊星曼陀羅、妙見曼陀羅)作られ始める。 |
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| ●文章博士・三善清行、明年辛酉革命の議を奏上。 | |||
| 901 | 延喜1 | ●正月、菅原道真、突然大宰権帥に左遷、大宰府に流される。 |
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| ●三善清行の建議により、初めて「辛酉革命説」をもとにした改元がなされ、年号「昌泰」を「延喜元年」とする。 | |||
| 9〜11世紀 | === | ●貴族に陰陽道の占い大流行。 | === |
| ●陰陽道の天皇家による独占ゆるぎ、公家に民間陰陽道広まる。 | |||
| ●宿曜道、陰陽道の暦を批判。日蝕予報でたびたび対決する | |||
| 917 | 延喜17 | 賀茂保憲 生。 | === |
| 921 | 延喜21 | ●安倍晴明 生。 | 土御門家記録・尊卑分脈 記載の没年から逆算 |
| ●法師陰陽師芦屋道満、九字を開発。 (※道満の実在は定かではない。) |
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| 927 | 延長5 | 「延喜式」の中に、官暦を製造する上での細則を記載。 | === |
| 931 | 承平1 | 安倍晴明(幼少時)百鬼夜行を見る。 | 今昔物語集 |
| 935 | 承平5 | 将門の乱 | |
| 937 | 承平7 | 明年に暦についての論争、暦博士・葛木茂純と大春日弘範でなされる。 | === |
| 938 | 天慶1 | 賀茂光栄 生。 | === |
| 939 | 天慶2 | 藤原純友の乱 | === |
| 940 | 天慶3 | ●平貞盛ら、平将門を討つ。 | === |
| ●賀茂忠行(陰陽師)が平将門の乱に際して「白衣観音法」を修すべきことを奏上する。 | |||
| 954 | 天暦8 | 安倍晴明の長男・安倍吉平 生。 | === |
| 957 | 天徳1 | 賀茂保憲の建議により日延(の僧)、送使として渡海。中国より符天歴を請来。 ⇒これ以後宿曜道が形成されていく。 |
大宰府政所牒案/平安遺文 第9巻4623号 |
| 959 | 天徳3 | 賀茂忠行、勅を奉じて箱の中の念珠を言い当てる。 | === |
| 960 | 天徳4 | ●4月、賀茂保憲、天文博士に昇進する。 | |
| ●7月25日、五龍祭行われる。 | |||
| ●11月28日、安倍晴明、建礼門の前で安摩の舞を舞う。 | |||
| ●内裏炎上、温明殿の霊剣が焼失する。 | 日本紀略 | ||
| 961 | 天徳5 | 6月28日、安倍晴明、天文得業生として内裏炎上の際に焼失してしまった霊剣(護身剣 ・破敵剣)の再鋳造に、天文博士の賀茂保憲・祭郎暦得業生の味部好相らと共に携わる。 | 塵袋・中右記 |
| 962 | 応和2 | 賀茂保憲、陰陽頭となる。この年、来る応和4年が甲子革令にるという勘文を提出する。 | === |
| 964 | 康保1 | 初めて改元が”甲子革令説”によってなされ、「康保元年」に改まる。 | === |
| 966 | 康保3 | 小野道風 没(71歳) | === |
| 967 | 康保4 | 6月23日、安倍晴明、日時勘申する。 →冷泉天皇の政務の開始日を意味する「政始(まつりごとはじめ)」の日を、7月15日と勘申する。 |
=== |
| 968 | 安和1 | 安倍晴明、朝廷に出仕。 | === |
| 972 | 天禄3 | 12月6日、安倍晴明、天文博士となる。 | === |
| 974 | 天延2 | ●5月14日、安倍晴明、円融天皇の御願によって相地をし、比叡山に 建立する大乗院の場所を決め、比叡山に登る賀茂保憲に随行する。 |
=== |
| ●12月3日、安倍晴明、天文密奏する。 →鎮星(土星)が第四星を星食で隠した為。 |
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| ●賀茂保憲、造暦の功績により従四位下に進む。 | |||
| 977 | 貞元2 | 2月22日、賀茂保憲 没。(80歳) | === |
| 978 | 天元1 | 7月24日、晴明邸に落雷、邸が破損。 | === |
| 978 〜 983 |
=== | 安倍晴明、『占事略決』を著す。(京都大学図書館所蔵 )本の奥書に己卯年とある(年号は天元6年としているが、この年号表記は錯誤ではないかと推測される) | 占事略決 |
| 980 | 天元3 | 安倍晴明、花山天皇の命で那智山の天狗を封じる。 | === |
| 984 | 永観2 | 7月27日〜29日、安倍晴明、日時勘申をする。 →円融天皇の譲位と皇太子の立太子の日時を勘申するが、翌日その日時勘申の日が問題とされ、29日に改勘し、円融天皇の譲位の日時を8月27日巳刻とし、立太子の日時を同日の未刻・申刻と改勘し、日時勘文を藤原実資のところに持参する。 |
=== |
| 985 | 寛和1 | ●5月29日、安倍晴明、花山天皇に日時勘申をする。→花山天皇が 喪服である錫紵(しゃくじょ)を解く日についての日時勘申。 |
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| ●安倍晴明、大嘗祭において吉志舞の奉行をする。 | 園太暦 | ||
| 986 | 寛和2 | ●2月16日、安倍晴明、文博士正五位下として、壬式占をし占申する。 →太政官正庁に蛇が出たことを、六壬式で占った結果、丑・未・辰年生まれの人が物忌の該当者となる旨を占申した。 |
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| ●2月27日、安倍晴明、六壬式占をし占申する。 →太政官正庁に鴿(はと)が入って来たことを占った結果、辰・午・亥年生まれの人が物忌の該当者となる旨を占申した。 |
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| ●6月23日、安倍晴明が、天文の異変から花山天皇の出家を見抜く。 | |||
| ●賀茂光栄の子供、賀茂守道 生。 | |||
| 987 | 寛和3 永延1 |
●2月19日、安倍晴明、一条天皇が凝華舎より遷御するに際し、反閇を行う。 | === |
| ●現存する最古の「宣明暦」による、具注暦が作られる。 | |||
| ●3月21日、安倍晴明、藤原実質が二条第に渡るに際して反閇をする。 | |||
| ●安倍晴明の次男・吉昌が天文博士に任じられる。 | |||
| 988 | 永延2 | ●7月4日、安倍晴明、藤原実資の女児の病気の為に鬼気祭を行う。 | 小右記 |
| ●8月7日、安倍晴明、日時勘申をする。 →けい惑星が軒轅の女主を犯した事で執り行われるけい惑星祭の 日時を、12日・19日と勘申をする。 |
===
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| ●8月18日、安倍晴明、けい惑星祭の奉仕をしないことで、職務怠慢 を摂政の藤原兼家に責められ、過状(始末書)を提出させられる。 |
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| 989 | 永延3 | ●1月6日、安倍晴明、一条天皇の御悩によって、御占(みうら)を奉仕 する。 |
=== |
| ●1月7日、安倍晴明、一条天皇が白馬節会の為に紫宸殿出御前に、 御禊を奉仕。 |
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| ●2月11日、安倍晴明、皇大后藤原詮子の御悩の為、泰山府君祭の 奉仕する。仏教側からは天台座主・尋禅の尊勝法も同時に行われた。 |
小右記 | ||
| ●2月16日、安倍晴明、一条天皇の円融寺行幸に際し、紫宸殿で反閇 を奉仕。 |
=== | ||
| 990 | 正暦1 | 藤原道隆、関白となる。定子中宮が誕生。 | === |
| 991 | 正暦2 | 安倍吉平は雨乞い祭の「五龍祭」をこの年に3度も行っている。 | === |
| 993 | 正暦4 | 2月3日、安倍晴明、急な一条天皇の御悩の為、御禊をしたところ、忽ち験があった功で、位階を正五位上に昇叙される。 | === |
| 994 | 正暦5 | 5月7日、安倍晴明が流行の疫病を払う為に、日時勘申した百座の仁王経講経が八省殿において行われる。 | === |
| 995 | 長徳1 | この頃、安倍晴明・賀茂光栄、一条天皇の蔵人所陰陽師として活躍する | 朝野群載 第5巻 |
| 藤原道長に内覧(関白代理)の宣旨が下りる。 | === | ||
| 996 | 長徳2 | 紫式部、越前下向に際して、陰陽師に吉日を占わせる。 →紫式部は父の藤原為時が越前の受領として赴任する為に、越前 の国(今の福井県武生市)に向かった。 |
=== |
| 998 | 長徳4 | ●清少納言『枕草子』 | === |
| ●賀茂光栄、大炊頭に任ぜられる。 | |||
| ●「具注暦」に藤原道長の『御堂関白記』が書き込まれる。 | |||
| 999 | 長保1 | ●7月8日、安倍晴明、一条天皇が大殿祭での内裏渡御に際し、反閇の行う。 | === |
| ●7月16日、安倍晴明、一条天皇の歯痛を占い勘申。 →天の咎ではない旨と、御祭の日時を勘申する。 |
|||
| ●10月13日、安倍晴明、太皇大后昌子内親王の御悩の為に御占をし、行啓すべき地と、その日時を勘申する。 | |||
| ●11月、道長の長女彰子、女御となる。 | |||
| ●11月7日、安倍晴明、日時勘文をし、防解火災御祭の日時を勘文する。 | |||
| 1000頃 | === | 暦道を賀茂家、天文道を安倍家が世襲することになる。しか、一方では実力主義が消え、陰陽道は儀式因習的になり科学的な進歩はしなくなってゆく。 | === |
| 1000 | 長保2 | ●1月28日、安倍晴明、彰子の立后が決まり、立后日を勘申するよう申しつけられる。日本史上初めての二后冊立(中宮彰子、皇后定子)がされる。 | === |
| ●2月16日、安倍晴明、一条天皇の法興院への行幸の日を、日時勘申をする。 | |||
| ●8月18日、安倍晴明、一条天皇が新造の内裏へ還御する日を、賀茂光栄と共に日時勘申するように下命される。 | |||
| ●8月19日早朝、安倍晴明、内裏の藤原行成の宿所で鼠が宿物をかじる怪異を占い、口舌の厄又は病の可能性を占申する。 同日、御服機を立てる為に掘る場所が一条天皇の忌方かどうか下問される。 |
|||
| ●10月11日、一条天皇が新造の内裏に遷御し紫宸殿に出御する際、安倍晴明が「道之傑出者」である故を以って、反閇をする。 | 権記 | ||
| ●10月21日、叙位儀の際、安倍晴明が式部大輔代として奉仕する。 | === | ||
| ●12月16日、安倍晴明、東三条院藤原詮子の御悩及び、詮子の前典侍藤原某に邪霊が憑いた為に、調伏法があれば17日に御修法を修めるべき旨を申上する。 | |||
| 1001 | 長保3 | ●6月20日、安倍晴明、東三条院藤原詮子の御悩による不動供養の日と、一宮敦康親王のお食い初め日を日時勘申する。 | === |
| ●12月17日、安倍晴明、東三条院藤原詮子が藤原行成第へ渡御することの是非を賀茂光栄・県奉平らと共に占い、「御すべからず」との旨を占申する。 | |||
| ●12月29日、安倍晴明、東三条院藤原詮子が崩御で朝廷での追儺を中止し、私宅にて行う。 | |||
| ●安倍晴明、従四位下となる。 | |||
| 1002 | 長保4 | ●3月19日、安倍晴明、禁中で頻繁に起こる火事の為に、秦正邦・賀茂光栄・県奉平、並びに文章道・明経道の博士らと共に、諸道 勘申をする。 | === |
| ●7月27日、安倍晴明、一条天皇の御願で「玄宮北極祭」を行う。 ⇒天変地妖や数々の怪異現象が起こった為に命がでる。 |
|||
| ●11月9日、安倍晴明、藤原行成の泰山府君祭を行う。 | |||
| 1003 | 長保5 | 8月21日、安倍晴明、一宮敦康親王の御悩に対して、邪気の占申をする。 | === |
| 1004 | 寛弘1 | ●2月19日、安倍晴明、藤原道長の三昧堂建立の為、賀茂光栄と共に相地する。 | === |
| ●6月18日、藤原道長が、賀茂神社への参詣を前にして、息子頼道の乳母の死で穢れを帯びる「触穢(そくえ)」したかも知れないと、安倍晴明に尋ねたので、賀茂光栄と共に「触穢している旨」を占申する。 | === | ||
| ●6月20日、藤原道長が、安倍晴明に造仏の是非を尋ね、晴明は「減門日であるので宜しくない旨」を答える。 | |||
| ●7月14日、照りが続いたので一条天皇の勅命によって、安倍晴明が雨乞いの祈祷の為に、五龍祭を行い、夜に大雨が降った。 | 御堂関白記 | ||
| ●8月22日、中宮彰子が大原野神社(藤原氏の神社)に行啓するに当たっての是非を尋ねられ、安倍晴明は茂光栄と共に占筮し、延期すべき旨を占申する。 | === | ||
| ●9月25日、23日に藤原鎌足の墓所がある多武峰が鳴動する怪異があった事により、藤原道長の命を受けて占う。 | |||
| ●12月3日、安倍晴明、原道長の命により、賀茂光栄・昌平と共に土御門第において祭を行う。 | |||
| ●この年、安倍晴明、左京権大夫となる。 | |||
| 1005 | 寛弘2 | ●2月10日、藤原道長が東三条の新第に移るに際して、安倍晴明が「新宅作法」を行なう。 | ===
|
| ●3月8日、中宮彰子の大原野神社への御幸につき、御所を出発する際に、反閇をする。 | |||
| ●9月26日、安倍晴明 没。←『土御門家記録』による。 (宮内庁書陵部『陰陽家系図』では10月26日となっている。) |
土御門家記録 / 宮内庁書陵部 『陰陽家系図』 |
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