桜・花見について






桜とは

日本の国花
古代、「桜」と呼ばれていたのは現在でいう「山桜」のことであった。

穀霊が宿る花と信じられていた。

満開の桜は秋の収穫の豊かさを告げるものと考えられていた。

暦がなく、季節感もあいまいだった大昔には、桜の花が満開になると農事を開始する合図になった。

田の神は普段は山に住んでいるが、田植えの時期になると人里に下りて来ると信じられていた。満開の桜はその前兆現象になった。
地方により、現在でも「田打桜」や「種蒔き桜」、「田植え桜」と呼ぶところがある。

 

 

写真(上・右)は京都・醍醐寺の桜

醍醐寺では、安土・桃山時代に豊臣秀吉により有名な「醍醐の花見」が催された。この頃から庶民にも身近なものになった。

語源 語源については様々な説がある。
  • 動詞の「咲く」に接尾語の「」がついて名詞になった。(⇒「さく・ら」)
     
  • 咲く花の総称の「咲くらむ」からきている。(⇒「さくらむ」)
     
  • 耕作を意味する古語の「さ」、もしくは神霊、稲等の穀物の霊、あるいは「サ神様」(「田の神様」)を表わす「さ」と、「座」 つまり寄り集まる場所や鎮座する場所を表す「くら」で穀物の霊が宿る所、を表している。(⇒「さ・くら」)
     
  • 古事記に登場する山の神様、『大山津見神(おおやまつみのかみ)』の娘の『木花之佐久耶毘売(このはなのさくやひめ )』の霞に乗って富士山の上空へ飛び、そこから桜の種を蒔いたという伝説が語源になったという説、または、「さくや」が転化した 。(⇒「さくや」)
     
  • 麗らかに咲くという意味の「咲麗(さきうら)」からきている(⇒「さきうら」)
     
  • 「より多い・大きく」の「さ」、「組み合わさる」の「く」、「群がる」の「ら」で「より多くの花が組み合わさり群がるように咲いている木」という意味。(⇒「さ・く・ら」)
 



絹織物が薄いため、紅の衣の上に白い衣をかさねると地の紅色が透けて桜色になる。

表は白、裏は紅色

桜の装束は貴族達に人気で源氏物語や枕草子などにもたびたび登場している。
















桜は奈良時代から栽植されたが、当時は田の神が来臨する花として、信仰・占いのために植えられることが多かった。 桜は主に山に咲いていたため、多くの人の目には触れにくかった。

奈良時代になると、美しい花の代表として桜を愛でる習慣が生まれた。万葉集などには桜も出てくるが「花」といえばやはり梅のことを指した。(万葉集は桜41首、梅118首)
野山に咲いている桜を好んで邸宅の庭などに移植し、鑑賞する風潮が生まれてきた。

嵯峨天皇が宮中に桜を植えて歌を詠み、宴を催した(=日本最初の花見)ことから桜の花見が盛んに開催されるようになった。
「花」といえば桜を指す
ようになった。桜は花王とも呼ばれた。貴族達に愛され、和歌にも多く詠まれた。古今集には、春の歌134首のうちほとんどが桜の歌で、梅の歌はわずかばかりとなった。

それまでは中国からの影響で梅の観賞「観梅」が流行っていたが、その花見以降、風流を愛する貴族のあいだで桜の花見が盛んに開催されるようになった。
仁明天皇の時代(承和年間)に御所の紫宸殿の前庭にあった左近の梅が、桜に代わったことからも桜が流行った事が分かる。また、都大路にも桜が植えられていたという記述も残っている。
当時は柳の木と混ぜて植えるのが好まれ、白と緑の色鮮やかさが楽しまれた。

中国から渡った梅よりも、優美な桜を素直に愛で、日本古来の自生種を大切にする文化が生まれたともいえる。

写真は京都

現在でも柳と桜が交互に
植えられている所は多い

安土・桃山時代には、醍醐寺で催された豊臣秀吉の「醍醐の花見」が有名。庶民にも身近なものになったのはこの頃からである。
武士の時代や江戸時代には、桜というと死、というイメージが意識化された。
桜はすぐに散ってしまうからだ。それは潔さにも通じ、武士を象徴する花ともなりまた日本人の美意識となった。


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制作日:2005年3月19日 製作者:朝明
更新日:2005年4月16日

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