平安京
(へいあんきょう)


8世紀末、桓武天皇山背国愛宕(おたぎ)・葛野(かどの)両郡にまたがる地(京都市)につくった宮都。形式的には1869年(明治2)の東京遷都まで約 1000年つづいたが、宮都としてさかえたのは鎌倉前期までのほぼ240年間である。

 

784年(延暦3)平城京から遷都してはじまった長岡京の造都事業は、推進責任者だった藤原種継(たねつぐ)の暗殺事件や洪水など社会不安がつづく中で 和気清麻呂らの進言もあって、793年に放棄が決定された。
桓武天皇は同年1月藤原小黒麻呂らに新京の地の調査を命じ、 3月には平安京予定地の視察におもむき、造営は急速にすすめられた。

新宮都として平安京がえらばれた理由として、この地が宮都として伝統があること、 また水陸交通が至便があげられる。

794年10月辛酉(しんゆう)の日(陰陽道の革命の日)をえらんで遷都が宣言され、 曽祖父天智天皇以下の皇統の各陵墓に遷都の奉告がおこなわれた。新都を平安京と命名、国名も「山背」から「山城」に変更した。 796年7月には大極殿(だいごくでん)が完成し、遷都後はじめて天皇が大極殿において朝賀をうけた。造都事業は以後も辺境の蝦夷征討事業とともにすすめられ、 翌年の3月には遠江・駿河・信濃・出雲などから2万4000人の雇夫をださせるなど、造都工事の規模の大きさをしめしている。
 

宮都は京都盆地の中央に位置し、南北約5.3km東西約4.5kmの長方形で、モデルとした唐の都長安のほぼ3分の1にあたる。 中央部を南流していた鴨川は、河川流路の改修の結果、都の東辺に移動し、西をながれる桂(かつら)川とともに重要な水上交通路となった。 北部中央には南北約1.4km、東西約1.2kmの政庁や官庁をあつめた大内裏(だいり)があり、その南面中央が朱雀(すざく)門で、 そこから南に朱雀大路(幅85m)が平安京南端の羅城門までのびていた。大内裏の中央東よりに天皇の御所である内裏があり、 公事や儀式をおこなう正殿の紫宸(ししん)殿をはじめ、天皇の日常の居所だった清涼殿などの建物がならんでいた。
 

平安京は、朱雀大路を中心として南北にはしる9本の大路、東西にはしる11本の大路によって碁盤の目のように区画されていた(条坊制)。

中央を南北にはしる朱雀大路で左京と右京にわかれたが、西側の右京は桂川の湿地で沼沢が多く、平安中期にはさびれた平安後期に左京は京域をこえて鴨川の東、白河の地まで市街地が形成されるようになった。

平安京の図…平安京の全体図。

平安京の地図…平安京の平安中期の貴族などの邸宅も書き込んだ地図。(文字を入れたため重い・大きいです・・・)

平安京の地図(エクセル版)…上の平安京の地図のエクセル版。縮小できるので全体が見れます。


日本史リブレット10
平安京の
暮らしと行政
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平安時代に都と庶民との橋渡しをする組織であった京職を通して
平安京という空間に生きる人々の生活の基本について。
中村修也 山川出版所 2001年7月
平安京の怨霊伝説
―陰陽師たちが支配した京都
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平安京の怪異や怨霊の事件についての短編集。
読みやすいです。
中江克巳 祥伝社
黄金文庫
2001年9月


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制作日:2004年7月14日 製作者:朝明
更新日:2005年12月10日

 

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