陰陽道は太古に発生した中国の民間信仰でもある。
まず中国の歴史から言うと
夏(カ)王朝では、陰陽道の事を連山(レンザン)、
殷王朝では帰蔵(キゾウ)と呼んでいたが、これらは滅んでしまい今日には伝わっていない。
周王朝 では、連山や帰蔵を体系化して易と呼び、『易経』という書物を作った。
これは、太古の神霊の伏義(フクギ)が考え出し、週の文王に至って完成されたものだといわれ、
陰陽道のバイブルとして長く権威をもち、陰陽道は「周易」として知られてきた。
戦国時代末になると、孔子が儒教を始めるが、次第に陰陽道を取り入れ“法物生成変化の原動力である陰陽二気を、
地上の聖人と宇宙の主宰者である天帝に対比させ、聖人は天帝の道、すなわち天道を地上に移し、実現させるものとし、
聖人が君主になることによって天下泰平になる” と説いた。
漢王朝になると、陰陽五行説は発達し、複雑になってくる。四季の循環から陰陽二気の相克と交替の関係、
五行相克・相生の関係が導き出されてきた。また月齢の周期が1年に約12回繰り返され、木星の周期が12年であることに
ヒントを得、十二支が考え出された。 十干も、植物の各過程を意味する様々な解釈から五行・十二支と結びつき、
十干・十二支の組み合わせが工夫されて歳月・日時・方位に占星術的な価値がつけられた。
陰陽道が大陸から
日本伝わってきたことについての最も古い記録は、『日本書紀』継体天皇7年(513年)7月、百済から五経博士段楊爾(ダンヨウジ)
が学者人材として献上され、同十年九月、五経博士漢の高安茂と交代したとあるものである。五経には、易経が含まれているので、これは日本の朝廷に正式に易が伝わったことになる。
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